このページは、「高齢者の終末期」をテーマにとりあげています。

なぜ「高齢者」なのか?それは、高齢者医療には今まで語られてくる事の少なかった特有の問題があるからです。その問題点を列記してみます。

 

 

「終末期」の意味

 

まず、「終末期」という言葉を、ガンのターミナルケアの時のように「余命がおおよそ何ヵ月」というようには定義できない事です。ご高齢な方の病状は、数ヶ月どころか、時には数年をかけて徐々に進行して行く事が多いようです。そして、いつ急に状態が変わるかは予想が難しい。

 

その数年の経過の中で、失って行くものもたくさんあります。自分の体の自由の問題であったり、社会的な役割の喪失であったり、親友の死であったり、時には自分の存在価値を見失ったり・・・・・

 

そのような「死と向き合わざるをえない生活」の中で、どのように実りのある人生を完成させる事が出来るのか。また、そのお手伝いが出来るのか?私は、終末期という言葉を、「実りある人生の刈り入れ時」「人生という物語の最終章」という意味で使う事にしました。

 

 

本人の意志・希望

 

御高齢な方は、全員が普段から「自分の最期」をどのように迎えたいのかという希望を周囲の人に伝えているわけではありません。いや、むしろそのような方は少ないと言えるでしょう。話したくても、その機会が無い事も大きな問題だとは思います。そして、残念ながら、重要な決断を迫られる場面では十分に意思疎通できない状況になっている事も多いのです。

 

その時に、代わりに決断を迫られるのはご家族と医療従事者です。ご家族のお話しから、その方の死生観や人生観を想像するしかない。苦しい、不安な、そしてある意味では危険な状況です。そのような混乱した状況では、「理性的な判断」と「現実を見詰めた時に湧いてくる感情」の複雑な絡み合いを生みます。

 

「もう十分にがんばったし、本人もこれ以上苦しみたくはないと思っていると思います」という一方で、「無理矢理栄養を胃に開けた穴や鼻から胃に入れた管から入れるような延命は望みませんが、今のその最低限の点滴は続けて下さい」という、十分に理解出来る感情からの希望が出される事になります。そして、どっちつかずのまま場合によっては何ヵ月もかけて徐々にやせ細って行く患者さんが誕生し、その間の疑問の残る人生は「病院にお任せ」になってしまう事も、残念ながらあります。

 

理性と感情の葛藤をそこで放棄してしまえば、実に中途半端な治療が続いてしまいます。そして、その方の日常を共にする医療関係者は「悩みながら」お世話を続けて行きます。

 

 

痴呆という問題

 

「痴呆」とは、単に記憶力が低下した事をさすものではありません。自分を取り巻く状況を「認知」し、「判断」する能力の障害を言います。今は、「痴呆にはなりたくない」という感情が広く社会の中で広まっていますが、はからずも「痴呆」になってしまった方の「尊厳」については、「なりたくない」という「感情」とは別の物です。

 

「痴呆」であっても、尊厳はあるのではないでしょうか。ただ、「痴呆」をそのように受け止める事がなかなか難しいですし、お付き合いするのも相当の労力を必要とします。

 

 

倫理的、法的問題

 

そのような状況にある高齢な方とお付き合いして行くには、常に倫理的、法的な問題が色濃く付きまといます。ご家族であろうが、医療関係者であろうが、介護や福祉に携わる方々も例外ではありません。

 

もちろん、「決められない」こともたくさんあります。それでも、話し合って行ける環境なり機会なりは是非とも必要な事だと思います。その中から、「応用の効く」方向性が導き出せないものでしょうか?

 

 

多様な価値観・死生観を認め合う必要性

 

個々の問題は、それぞれ共通項があるようでいて、実際は様々な特殊な問題をはらんでいます。その問題に関係する様々な人たちの、実に多様な価値観や死生観がぶつかり合う場面です。

 

その中で、自分の死生観は確立しながらも、多様な死生観を認め、あくまでも「患者さんを中心に据えた」援助をする事が出来るのかが問われるのだと思います。

 

 

介護という問題と、家族という問題

 

高齢者の終末期を考えるとき、避けて通れない問題に、介護ということがあります。徐々に出来なくなることが増えて行く高齢者の方々には、どうしても介護という問題が出てきます。

 

配偶者であれ、親であれ、その一員が世話を受けるようになることは、他の家族員にとっても、これまで庇護してくれ、依存させてくれていた人を失うばかりか、介護という新たな負担を生むことになります。

 

家族の不幸という点では同じ出来事が、ともすればそのメンバーを世話をする人とされる人に隔て、両者の悲しみの質を異なったものにして行くという面を持っています。一方で、「家族が一番良い繋がり」という観念が残っており、本来その機能を失いつつある家族に介護の主体が任される傾向は厳然と残っています。この辺の無理や矛盾が、高齢者の人生の最終章に大きな問題を生むようになって来ているように思います。

 

ひいては、亡くなった後の家族への影響という問題にも繋がる可能性があります。そのような中で、どのように尊厳ある生を保って行くのか。様々なケースがある中で、様々な工夫をしたり、家族の在り方を考え直したり、新しい人間関係を模索して行く必要が出て来ているように思います。

 

以上、高齢者にかかわる問題をあげてみました。皆さんはどのように思われるでしょうか?そして、どのように状況を変えて行く事が出来るのでしょうか?

 

 

「老い」という問題

 

高齢者の方々が直面し、苦しむ問題に「老い」という問題があります。年齢と共に体の機能はいろいろな部分が不揃いに予備の力を失って行きます。体が若いときのように言う事をきかないということ、物を覚えられない、すぐに忘れるということ、ハンディキャップを背負ってしまったということ・・・・・そういった「体に関係した苦しみ」もあります。

 

孤独を感じることが多かったり、漠然とした不安を感じたり、思うようにならない体にイライラしてみたり・・・・・そのような、「心に関係した苦しみ」もあります。

 

社会の中や家族の中での「役割」を失ったり、「役に立っている」という実感を持てなかったり、生活上の問題を抱えたり、親しい人が段々亡くなっていったり・・・・・そのような「社会的な苦しみ」もあります。

 

自分の人生には何の意味があったのだろうか、これからの人生には意味があるのだろうか、死んだらどうなるのだろうか・・・・・そういった、「魂の叫びに似た苦しみ」もあります。

 

いずれも、その向こうには、まじかに迫った「死」への様々な思いが見え隠れするように思います。また、いろいろなことを「失って行く」事自体が、その人全体の「ある部分の死」を意味しているように思います。

 

「老いを迎え撃つ」とか、「老人力」など、様々な本や意見がありますが、なかなか素直にそのように前向きになれないのが現実でしょう。かといって、「高瀬舟」「山椒太夫」などで有名な森鴎外のように、「死を恐れもせず、死にあこがれもせずに、自分は人生の下り坂を下って行く」という心境にもなかなかなれるものでもありません。

 

その人にとっての老いの苦しみの様々な意味を考え、どのように援助して行くことが出来るのか。そのあたりに、高齢者の方とどのようにお付き合いして行けるのかについての重要な鍵があるような気がします。